6月参禅会

 6/4は14名の参禅者で2柱坐り、無我という教義について以下のように法話をしました。

 無我とは、我が無いと書きますが、我とは何かを究明することが大切であります。我とは、本質(中身)がなくただ存在しているものです。本質とは、よく自己紹介に使う、自分の容姿や職業、性格、経歴などを意味します。自分が相手を見分けるときに、本質の違いによって相手を識別するわけですが、その本質を私だと思い込んでいるが、我の正体です。多くの人の中から自分を見分けるときには本質(中身、我)は無関係です。自分の性格や経歴や職業がどうであろうと関係なく、この身を直接感じているから間違えようがないからです。本質(中身、我)とは一切関係なく、ただ私が私であるということです。

南嶽懐譲禅師が初めて六祖慧能禅師と対面した時、六祖が「ここに来たのは何者だ?」と問います。禅僧同士はありきたりの会話はしませんので、名前を言えばそれは名前だと言われ、修行僧だと言えばそれは姿だと言われそうで、南嶽禅師は言葉に詰まってしまいました。六祖に出直して来いと言われ、八年の修行参究の末、再度対面し、「説似一物即不中」と答えられました。何とも説明のできないやつがやってきました。という意味です。その説明のつかない、本質のない存在が無我という事です。元来無我であるこの身が、様々な縁に触れて喜怒哀楽をしているのが人間の営みです。

次回は9/2の16時からですので、参禅希望の方は事前にご連絡ください。合掌