10月坐禅会

 今回は般若心経の心無罫礙についてお話をしました。心無罫礙とは、訓読みでは心に罫礙無しと読みます。罫礙とは、執着やわだかまりを意味しますが、心は元来無心であり、縁に触れて動くという事です。 

 私たちは、文明の発達によってネットやテレビなどで、世界中の出来事や様子を知ることが出来ます。しかし、知ることと、事実は同じではありません。江戸時代には、天皇の存在すら知らない人がたくさんいました。存在を知っている人も、会うことはできないので、自分の頭で想像している天皇がいるという思いがあるだけで、存在を知らない人は、天皇は存在しないのと同じことです。存在は、心を向けることで初めて問題になるのであって、心を向けなければ問題になりません。

 誰かに悪口を言われて怒りが起こります。悪口はすでに終わっていても、それを思い出して怒り続けます。怒りを無理に無くそうとしても、怒りには実体がないので、無いものは失くしようがないのです。無いものを有ると思い込んで怒りを自分で作っているという事です。慧可禅師が達磨大師に心を鎮めてくださいとお願いしたのに対し、達磨大師は心を出してみよと答えます。慧可禅師は心を出すことはできません。と答えました。心は捕えることができないので、無心といえます。無心であるからこそ、怒ることができて、喜ぶことができるのです。怒ることと、喜ぶことが同時に出来ないのは、元々無心であることの証明です。般若心経の心無罫礙もそれを示しています。 

 次回はいつもより一時間早い、11/9の午後3時からですので、参禅希望の方は前日までに連絡ください。合掌