11月坐禅会の法話を記載します。当寺の参禅者が、以前、臨済宗のお寺に参禅され公案を受けられたとのことで、その内容を記します。臨済宗の御住職が寺の庭にある大きな石を見るよう指示され、その直後に目の前の障子を閉められ、「今見えていた庭石はどこに行ったのか?」という公案だったそうです。一般的な見解から言えば、障子を閉めても、向こう側に庭石はあるに決まっていると言いたくなるのが当たり前ですが、皆様はどう答えられますでしょうか?
同類の公案に、百丈野鴨という公案があります。百丈禅師が見性された機縁を記したものですが、百丈禅師が師匠の馬祖禅師と行脚中、草むらから大きな音がして野鴨の群れが飛び立ちました。馬祖禅師は「あの鴨の群れはどこに行ったのか?」と問答をかけます。百丈禅師は見性の機運が熟していたので、「野鴨はただ飛んでいったのみです。」と答えました。すると馬祖禅師は百丈禅師の鼻を思いきりひねって、「ここに野鴨はいるではないか」と諭し、百丈禅師は痛みと共に見性されたという話です。庭石も野鴨の公案も、私たちの日常の思考を端的に示しています。思考は過去に執着し今の事実を曇らせます。あの時、こんなことを言われたから、あいつが憎いなど・・・。憎言は今、あるわけではないのに。