四月坐禅会

 

坐禅は見える、聞こえる、感じることだけに徹するというのが大切なことですが、私たちは長年染みついた考えるという習慣によって、ただ見えている、ただ聞こえているという事実だけに留まれないので、坐禅では苦労するわけです。

 

 見えるという事を一般的にいえば、私から見て、手前にAさんがいて奥にお釈迦様の仏像があると説明するのが当たり前ですが、これは見えた事実が先にあって、後から手前にAさんがいて、奥に仏像があると考えて判断しているということです。しかし、目の純粋な働きは、Aさんと仏像を同時に映していて、手前も奥もなく、事実は一瞬一瞬で、距離はないということです。

 

 また、日常生活での例をあげると、毎日同じ道を通う人からすれば、いつも同じ道、いつも同じ景色を見ていると思われますが、同じ道、同じ景色は二度と存在しません。常にその時々に新しい道、新しい景色に出会っているのが事実です。人間の記憶によって、事実が正確に見ることができない一例を示しました。

 

 これは、聞こえる、感じるということについても、常にその時、その時が新しい体験であり、同じと思うのは事実の世界ではなく、思いの世界だということです。事実と思いは違う世界です。