禅語その弐・人生


ここでは人生の指針となる禅語です。

 

まずは有名な道元禅師の短歌「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」から。そんなの当たり前と思うかもしれません。ですが、春は花ならば、あなたは一体、何でしょうか?あなたは「わたしは〇〇」と、自分の本来の姿を当たり前のように答えられますか?案外、当たり前のように一言で答えるのは難しいものです。当たり前の現象の中には、少しも隠すところなく真実の姿が現れています。これを「遍界不曾蔵」(へんかいかつてかくさず)といいます。その真実の自然をよく観察し、真実の自分を見失うことなく生きていきたいものです。

 

次は「百尺竿頭に一歩を進む」。これ以上進む先がないところで更に一歩を踏み出す、という意味です。百尺の竿の先端にはもう先がないので、本来は進みようがないのですが、満足して歩みを止めることなく、敢えて一歩を踏み出すことで、また新たな境地が開けてきます。例え悟りに到達したとしても修行の道にも終わりはない、という意味でも使われますが、公案や坐禅で思考の限界(不思量)を超えて無分別智に至る(非思量)ことの意味でも使われます。

日日是好日

にちにちこれこうにち

毎日が好い日なら好い日悪い日を区別することはできない

毎日が好い日と思える心境のことではない。晴が好いという人もいれば雨が好いという人もいる、という意味でもない。毎日が好い日なら、悪い日がなくなるだけでなく、好い日もなくなるのだ。つまり、自分の心が勝手に好し悪しの区別をつけているだけで、もともと好い日も悪い日もないということである。右左、善悪、浄不浄、増減、男女、生死すべての二極対立に当てはまる。区別をやめれば真実が見えてくる。


行雲流水

こううんりゅうすい

行く雲・流れる水のように自由に生きる

禅寺では修行僧のことを「雲水」と呼ぶ。自由というにはほど遠いと俗人には思える、厳しい修行生活。雲水としての修行期間は基本的に1年だが、中には10年以上も修行を続ける雲水もいる。禅寺は来る者を拒まず、去る者を追わず。本来、いつ上山し、いつ下山するかは自分次第である。いつまで修行するのですか?と聞くと、決まって「今が下山する時だと自分が思った時」という答えが返ってくる。厳しい修行の毎日にも、彼らは究極の自由を生きている。


自灯明、法灯明

じとうみょう、ほうとうみょう

自らを光とし、自らを拠り処として生きる

お釈迦様が入滅される直前に、身の回りの世話をしていた弟子の阿難陀(あなんだ、後に2代目の法嗣となる)に示した最後の教えである。師が亡くなってしまったら一体何を頼りに生きていけばよいのかと嘆く阿難陀に対し、お釈迦様が「他者に頼らず、自らとダルマ(仏法)を拠り処とし、往く道を照らす光とせよ」と諭した言葉である。昔、中国の瑞巌師彦(しげん)禅師は毎日自分で「おい、主人公」と自らに呼びかけ、自分で「はーい」と返事をして自問自答したという。最終的に頼りとすべきは自分自身と仏法以外にはない。