自分と宇宙が一体であるというのは、古代インドのバラモン教の考え方で、絶対的な存在であるブラフマン(宇宙神)とアートマン(自我)が合一することをいいます。日本に伝わった仏教においても、バラモン教と中国道教の影響を受けており、同様の解釈をする向きもありますが、お釈迦様の正確な教えは「空」(=縁起)の思想であり、絶対的な存在としてのブラフマンやアートマンは否定しています。
道元禅師が著した「修証義」に(海の水を辞せざるは同事なり、このゆえによく水集まりて海となる)との教えがあります。同事とはワンネスと言い換えてもよいと思います。海はいかなる水も拒みません。拒まぬことが同事であり、同事であるから大海となるのです。私たちは自分という確かな存在があって自分の外に動植物や宇宙が存在していると認識していますが、お釈迦様の教えにも(我と万物は同一根なり)とあるとおり、自分の体と宇宙の全ての存在は同じ1つの根から生じて今も1つであり、自分という固定的な存在は無く、この体は川の流れと一緒で一瞬もとどまらず変化し続ける宇宙の命の一部と説いたのです。これを「空」といいます。これは科学の見地からもいえることです。宇宙の始まりは百四十億年ほど前、ビックバンという光のエネルギーの大爆発により恒星や惑星が生まれた。そして奇跡的な確率で水のある惑星(地球)が生まれ、生命が誕生した。そして人間は地球という惑星から生まれたわけですので、人間の根元は光の一部であったといえるのではないでしょうか。そうすると自然も動植物も他人も元は1つということになります。
原始経典に(今どの方向に心で捜し求めても、自分より愛しいものはどこにも見つからない。そのように他人にとってもそれぞれ自己は愛しい。だから自分を愛するために他人を傷つけてはならない。)とありますが、元は1つと考えれば、他人を傷つければ自分が傷つく。自然を破壊すれば自分も破壊されることになります。なるべく自然に迷惑をかけずに、他人や自然に感謝の気持ちを忘れず天から与えられた命を全うしたいものです。
仏教に不殺生戒という教えがあります。簡単に言えば、全ての命を大切にしようという意味ですが、我々は生きるうえで動物や植物など他の何かしらの命を奪わなければ生きられません。生きることは他の動植物や自然に確実に迷惑をかけているわけです。そして地球上で人間だけが必要以上に動植物を殺し、環境を破壊しているわけで、地球から見れば人間が最も厄介な存在と見えるように思います。今は食事を出来るのが当たり前でお金を出せば何でも好きな食べ物を好きなだけ食べられる時代です。そして、食べ残しや生ごみの量は世界一という我が国の現状は、他の動植物の命をいただいているという感謝の気持ちが欠如しているかではないでしょうか。人は食欲が満たされると、性欲、金欲、名誉欲といった具合に欲望にはきりが無いわけです。そして、なるべく安く、早く、効率よくと産業を発達させた結果、自然破壊や、金融危機などの問題もおきています。自然との共生、自然を大切にと言う言葉をよく聞きますが、自然は人間がいなくても自然を保つことが出来ますが、人間は自然がなければ生きていくことは出来ません。ということは、自然が人間を守ってくれているということです。
2600年前、お釈迦様が悟りを開かれ布教の旅先で説法をしているときに、1人の聴衆が(ありがたい説法も結構だが、そんな話より目の前のヒマラヤ山脈全てを金に変えてくれれば人々はもっと幸せになれる)と言いました。するとお釈迦様は(そんなことをすれば争いがさらに増えて人々はもっと不幸になる)と言ったそうです。また、インデオのことわざに(最後のさかなが捕らえられ、最後の木が倒されたとき、人は始めてお金は食べられないと言うことに気づくだろう)とありますが、魚は陸にあげられて初めて水のありがたさを知るように、人も困ったときに初めて、天地自然の空気や水、動植物、先祖や両親、妻、夫のありがたさを実感するのではないでしょうか?生きているのが当たり前ではなく、ご先祖の恩恵、多くの他の生命、自然環境に支えられ生かされている感謝の気持ちを思い出しましょう。